甲斐源氏と武田信玄

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「御旗盾無、ご照覧あれ!」(武田信玄)


武田信玄の映画や大河ドラマを視聴していると、武田軍が出陣する前のワンシーンでよく出てきます。

武田信虎、信玄、勝頼の武田三代には、強烈な源氏意識があったと言われています。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、甲斐源氏の武田家の始祖である武田信義の武勇が描かれています。甲斐源氏は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光を祖とし、武田信義から続く名門一族です。

武田家は甲斐源氏としての誇りと足利将軍家への忠誠を持って戦をしていました。甲斐武田家にとって重大な決定を下すときは、お館様が家宝である御旗盾無に対して誓約を誓い、ひとたび誓いを立てたときは、誰も反対することは許されないという不文律があったという。


織田・徳川連合軍との長篠の合戦(1575年)の前夜、武田勝頼が出陣しようとしたときに、山県昌景、馬場信春などの重臣は、今は出陣をすべきときではないと猛反対をしました。しかし、信玄の後継者の勝頼は、すでに御旗盾無に誓約したために、誰も意見を翻すことができなかったという逸話があります。

御旗は後冷泉天皇から源頼義が下賜され、その息子の義光に相伝され、子孫である甲斐源氏の家宝になった。盾無は、菅田天神社が所蔵する鎧で、盾を必要としないほどに丈夫な鎧とされることに由来されるとする説があります。いずれにしても、武田家にとって神仏のような信仰の対象であったと思われます。鎌倉幕府を開いた河内源氏源頼朝と共に武田家の先祖の武田信義は、甲斐源氏の棟梁として大きな役割を果たしました。
そういった背景を知った上で、武田信玄を描いた黒沢明監督の名作である映画「影武者」(1980年)を観ると、その強さの秘密の一端がわかった気がします。

「山は、山は動かん!」(信玄)武田勝頼隊は劣勢となっていましたが、後方に陣を構えた風林火山の旗と武田信玄の姿を観ると、徳川家康の猛将・本多忠勝隊も勝ち目がないと思って撤退してゆきました。信玄の存在に、織田信長も徳川家康も甲斐を攻めることができませんでしたが、信玄亡き後、武田家は織田・徳川連合軍の長篠の合戦の敗北で、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊など多くの重臣を失い、甲州征伐(1582年)で武田家は滅亡してしまいます。もし信玄が病死していなければ、長篠の戦いは全く違った結果となったかもしれません。

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